◆ 内部被曝通信 福島・浜通りから ◆

《47》 そこに高橋享平先生がいた 2013年1月26日

高橋享平先生の御逝去を悼み、謹んでご冥福を祈念申し上げます。

「東京から来たの?ガラスバッジ持ってない?50個ぐらい」
震災から1カ月経った2011年4月中ごろ、先生に初めてお会いしたのは原町中央産婦人科(福島県南相馬市)のいつもの診察室だった。
きれいに掃除された、窓の広くて明るい待合室を抜けて、左側にある1番診察室の茶色い扉を開ける。超音波の器械の横に優しい顔をした先生が座っていた。先生は続けた。

「今、南相馬にいる妊婦さんや産まれたばかりの赤ちゃん、子供にガラスバッジをつけてあげたいんだ。そうすれば、どれくらいの被曝か分かるし、どうすればいいかもわかるだろう?守ってあげたいんだ」

今となっては当然のことかもしれないが、非常に大事なこと。計測を行い、値を見て判断する。放射線の問題は個別対応が原則。医師として患者さんに診療を通じて医療を提供し、共に進む道を話し合う。そんな大事なことを最初に教えてくれたのは享平先生だったように思う。

その当時、現場に線量計や何かを測定するための器械なんて何もなかった。市立病院に一つあっただけ。東京に戻って、必死に連絡を取り、やっと手に入れた古いロシア製の(軍隊用?)積算線量計を持って行った。でも使い方が分からず、うまくはかれなかった。

「もうなんかごちゃごちゃ言っているから、俺が自分で器械を買う」。内部被曝検査は、享平先生の尽力が無ければ多くの情報が闇へと消えていただろう。
内部被曝をいち早く定量しなければならない。南相馬にいる医者であれば誰もがその重要性を分かっていた。でも、どうやって?誰も分からなかった。

「髪の毛で何とかならないのか?歯は?xxx研究所ってところに情報がある」。
今見返せば、私のメールボックスには享平先生とのそんなやり取りがたくさんある。

国が……、県が……、xxxがやってくれない。そんな何も解決しない愚痴を享平先生から聞いた覚えがない。ただ南相馬の市民を、子供を、妊婦を守るため。できることを一つずつ。

ホールボディーカウンター(WBC)という器械を手に入れなければならない。4月から享平先生が必死に電話をかけ続け、交渉を続けてくれたからこそ、今までの南相馬での計測結果がある。そしてその結果に基づく判断が出来る。

現在稼働している器械が手に入ったのは2011年9月。半年も経ち、甲状腺の検査をするには遅すぎた。しかしながら、これでも日本国内では、圧倒的に早い時期に市町村主導で計測を行い、内部被曝の現状を明らかにすることができた。正確ではないかもしれないが、享平先生の行動が無ければ、今回の事故発生から1年以内に計測することが出来た内部被曝の情報は、現在の半分以下になっていただろうと推測する。

データが順次公表され、海外に向けてJAMA(アメリカ医学会雑誌)に掲載されたとき、一番喜んでくれたのは享平先生だった。
「これで南相馬のみんなが平和に暮らしていくための根拠がまた一つ出来たね」。大きくため息をつきながらそう言った。

「ハコちゃん、明日スコップ持ってきて。妊婦さんの家に除染に行くから。」
今思えば、南相馬で一緒に働いている多くの方々とは享平先生を介して知り合った方ばかりのように思う。2011年8月、めちゃくちゃに暑い日だった。「今週末に除染するから」。
最初は何だかよくわからなかったが、思い思いの格好をしていろんな方が集まっていた。お互いに知らない、誰も名前も顔もわからない。建築会社の社長さん、会社員、主婦、先生、医者など様々だった。その活動がきっかけとなり、だからこそ今の我々のネットワークがある。そして南相馬除染研究会が発足し今も活動を続けている。

享平先生がやろうっていうのだからやる。そう言ってみんなが集まった。保育園の除染を行った時も、自身で計測した線量を見て、「ほぉ〜。下がったなあ~」と言っていたのを思い出す。本当に嬉しそうだった。「もっと細かく計って、ちゃんと結果を残しなさい。一番良い除染の方法を見つけるんだ」

「どうやったら、安全な食べ物を作れるんだ?バイオマスとかどうなんだ?」最期の最期まで南相馬の復興をめざしていた。今の南相馬だからこそできることはないか、あらゆる方向にアンテナを張り巡らせていた。

エネルギーのこと、地元の農業のこと、除染のこと、子供の遊び場のこと。ひまわり畑を作ろうという話しもあったし、ゼオライトなどもいち早く購入して試した。家の壁に放射線をある程度防御するシートを試作したり、メロンとかブドウとかについて情報を集めたり。家庭菜園の代わりになるような、自宅内で出来るシステムを作れないかという話しもあった。南相馬の特産に出来ないか?といつも言っていた。子供が自由に遊べる場所を作るには?

いつもアイデア満載。新しくアイデアが浮かぶたびに電話をもらった。色々な話をしたように思う。そんな享平先生だったが、医師としての診療は当然のように続けていらっしゃった。昼に会いに行くと、「昨日はお産があったから眠いんだぁ。」と疲れているがどこか嬉しそうに話してくれた。

相双地区に産婦人科医院は決して多くない。震災から1年間で、享平先生のもとで40人弱の新しい命が産まれたのである。自身の治療に午前中に向かわれ、午後帰ってきてから外来をする。

「午後から80人診察したよ」と言われて、ただただ感服するだけだった。医療者であれば、この診療を毎日続けるのがどれくらいの仕事量かお分かりなるはず。妊婦や子供さんだけではなく、多くの市民の方々の健康も守り続けた。享平先生の姿を見て頑張ろうと思ったのは、私のような医療者だけではない。その姿を見て赴任した医師もいる。

「ちょっと薬が増えてね、たまに痛みがあるんだ。」
焦り、弱気になっているときだってあった。癌だと診断されたとき、薬が増えてきたとき、採血の結果を見たとき。当然医師としてその検査結果が何を意味しているかわかる。だけれども自然と話す内容は復興の話。入院した病床でも、スタッフが持ってきた報告書に目を通し指示を出していた。今後何をしていけば問題点が明らかになり、南相馬のためになるか。ただただ南相馬の未来のために。常に10年20年先を見すえていた。

ありがとうという言葉だけではとても言い表せる物ではない。私程度の人間がどこまで理解できているか分からないが、本当に医師として大事なこと、生きるとは様々なことを教えていただいた。

享平先生、どうか安らかに眠ってください。今も日本中から支援があり、南相馬市、福島県には復興のために力を注いでいる先生の仲間、弟子がたくさんいます。そしてこれからもどうか我々を天国から見守っていてください。
ありがとうございました。

2013年1月25日 坪倉正治


高橋享平先生(左)。2012年7月、除染研究所で

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